誠実な感情の見せ方~小さな理不尽さをけして逃さない事
インターンシップ先の施設での出来事です。
今日、テーブルで向かい合って作業していた二人の利用者さんがいました。
そのうちの一人が少しセンシティブで、ちょっとオーバーに物事を捉えて過剰反応する方なんです(知的障がいをお持ちです)
んで、向かい合って座ってる相手に向けて「触るな」みたいな事を口にしたんですね。相手は全く触れてもいなかったんですが。
んで、おそらく決定的に言ってはいけない、相手を傷つけるような事を口にしたようなんです。(ドイツ語が聞き取れなかったんですが、そんな感じでした)
それを聞いたスタッフがすごく怒ったんです。
でもその方は謝らなかった。頑として。
全く話が通じず、でもスタッフは決してそれを譲らず、施設のチーフのところに行きなさいと言った。んでもその利用者さんは決して聞かず。
ついにスタッフは内線を入れ、チーフを呼びました。
私はこの顛末を見て、スタッフはチーフに電話を入れてるふりをしてるだけかと思ってたんですが、そしたらほんとにチーフが来たのでびっくりしました。
こりゃおおごとになってきた感満載。
チーフがスタッフから事情を聞き、その利用者の方に静かに言い聞かせていました。
おそらく、それながら帰らなければいけないよ、みたいな事を言ったようなんです。
どうやら利用者さんにとって、チーフが自分とそういう話をするという事態は、大げさに言うと学校で校長室に呼び出されるレベルの事のようなんですね。
帰らなければいけない⇒自分の存在が脅かされるほどのレベルのことと感じて、パニックになり泣きだし、ついに謝ったんです。
ここで過ごしてる中で一番感情がむき出しになるシチュエーションに遭遇しました。
利用者の方の知的レベルを考慮して、果たしてどれほど状況を理解できたかはわかりませんし、起こった事を覚えているかどうかも分かりません。
でも、人としてやってはいけない事には当然ノーと言うべきです。
知的障害があっても、許されることではありません。
それは利用者を庇護する対象としてみるだけじゃなくて、人間として対等に扱っている事になります。
もちろん障がいの程度を考慮し、彼らにできる事できない事を見極めた上で、相手にどんな伝え方をすべきか考慮しなければなりません。
障がいがあることを理解した上で、それでもやってはいけない事は認めるわけにはいかない。
障がいがあるからといって、相手を傷つけたり、嫌な気持ちにしたり、理不尽な言動が許されるわけではない。
相手にハンディキャップがあり、できる事できない事があるのはわかっている、それを理解した上で魂で対等な接し方をする。
今日起こった事は本当に小さな出来事だったかもしれない。
人によっては、事を荒立てないように、ハイハイわかったよと言われるがままにしてトラブルを起こさない事に徹するかもしれない。
けれど、そんな小さな事ではあるけど、理不尽さを許しているという事になってしまう。
それを見過ごしてはいけないんです。
その小さな理不尽の積み重ねが、彼らの人間性や社会における振る舞いに大きな影響をもたらし、
生きていくために必要なヘルプを求めるために、誰かと支え合って協働していくために、社会で適切な人との関わりができるようになるかどうかを左右します。
小さな事ではあっても、相手を傷つけたり、人として間違っているのならばきちんと分かってもらわないといけない。
本当の意味で理解してもらうのは困難だと思います。
けれど、「自分の言動で誰かがすごく怒って自分の立場が危ぶまれた」という認識をしてもらうことは、その人の障害を考慮した上によりますが、多かれ少なかれできますし、何かしらの学びを本人にもたらすと私は信じています。その貴重な学びの機会を逃してはいけない。
「どうせ分からないから」「たいした事じゃないから」で片づけてはいけない事です。
「自分は何やっても許される」という認識では社会で生きていく事ができません。
本人に理解できる余地が少しでもあるならば、必ず働きかけて理解してもらうこと。
そのために適切な形で(ここが重要です)感情をぶつけることも必要だと私は思うし、その瞬間に今日立ち合う事ができました。
だって支援者だって人間なんだから、傷ついて悲しんでいる誰かの側に立って抗議するならば感情を見せなければ相手に伝わりません。
ドイツの施設のスタッフで、忙しさで余裕をなくし感情的に人に八つ当たりするような人は皆無です。
ただ、今日起こった出来事のように、人として誠実な接し方をする時の感情の見せ方はとてもストレートで健康的だとつくづく思います。
それを改めて感じ、そんな人との向き合い方が私は好きだと改めて思い、この仕事の面白さや深さをまた一つ知った日でした。
難民コミュニティ訪問
ベルリン滞在もあと2ヶ月を切りました。
こっちに来てからやってみたいと思ってた事の一つに、難民支援の現在の状況をこの目で見ること、というのがありました。
ただ、ベルリンに来てから心の調子を崩してしまったためにあまり思い切ったができなくなってしまったり、
インターンシップやバイトもあったりで、難民支援への関心が薄れてきていました。
実際、ドイツの難民支援は一つのフェーズを超えたという印象も感じており(これに間違いはないと思います)、私がでしゃばる事ではないかなとすら思い始めていました。
が、最近になって色んなブログ記事を読み、
せっかくドイツにいるのにこのままではダメだと思い、行動を起こしてみる事にしました。
ネットでボランティア検索をして、
引っかかったものに応募しました。
以下覗いたウェブサイトの一部。
◆Vostel
◆GSBTB
すると次の日にお返事が!
すぐにアポを取り、行ってきました。
今回訪れたのはSpandawの難民支援センター。
私の家から1時間以上かかるとこでした…
遠い!と思ったけど、まぁ暇だし行ってみるかと思い、Ubahnとバスに揺られ到着。
入り口でセキュリティの人に声をかけ、事務局の人に連絡を取ってもらいました。
入場のために写真付きIDが必要との事で、やばい聞いてないよ持ってないよと焦ったのですが、事務局の人が迎えに来てくれたのでそのまま入場できました。
中に通してもらい、話を聞かせてもらうと、やはりドイツ語が不十分では難しいとの事、プラス2ヶ月だと短すぎるとの事。
やっぱりなーと思いつつ、メールの返事では「それでも大丈夫よ!」って言ってくれたから来たんだけどなーと複雑な気持ちに。とほほ。
せっかく来てもらったし、是非中を見ていってくださいという事で、コミュニティを見せていただく事に!
思いがけず、自分が一番望んでいた事が出来る事になりました。
元々ここの土地は工場の跡地を借りて使用しています。
中はだだっ広いスペースで、そこに仕切りを付けて生活スペースを確保していました。ちなみにプライバシー配慮のため、実際の彼らの生活スペースは見る事ができません。
かつて工場だった元々の殺風景な空間の中に、温かみのある色の壁を使ったりしており、その生活スペースからは明るい雰囲気を感じられました。
綺麗な布のカーテンがかかってるのもよく見られたのですが、カーテンは実際に居住している難民の人たちがワークショップで作成したものだそうです。
ここは生活スペース、ワークショップ、語学学校、公園、食堂などが揃っており、更に仕事斡旋や住居探しなど役所としての機能も果たす部署も揃っていました。
ドイツにやってきたものの行き場がない人たちが、ひとまずここに足を下ろし、ドイツで生活するに当たって必要な手続きをしたり、生活や仕事に必須のドイツ語を学んだり、仕事や実際住むアパートの斡旋をしてもらったりなど、自立するための準備期間をここで過ごす、という場所です。
実際こうして訪れるまで、難民支援ってもっと殺伐とした重い空気の中行われてるのかなってイメージ抱いていたのですが、全くそんなものは感じられず、
ただ人々の淡々とした暮らしや営みがそこにあり、人と人の間にある温かさが見られる瞬間がいくつもありました。
職員さん達、難民の人たち、皆揃って家族のような雰囲気でした。
結局お互いの条件が合わず、ここでボランティアをするには至りませんでしたが、実際に難民支援コミュニティを見せていただいて、大いに感じるものがありました。
大変なものに違いないと、先行するイメージで勝手にいろいろ決めつけていたり思い込んでいた自分が恥ずかしくなりました。
そこにあったのは希望でした。
ここまでやってくる道のりは壮絶だったかもしれない。
このセンターは2015年末からやっているとの事。ここまで来るまでに大変な事がいくつもあったかもしれない。
けれど、ここで見る事が出来た人々の在り方を見て、こうして難民支援を為しているドイツの未来は間違いなく明るい、と確信しました。
日本にはまだ難民受け入れの土壌ができていません。
行政に全くその気がないし、世論の関心もない。
色々課題はあると思うけど、難民受け入れはうまくやれば国に大きな豊かさをもたらすものだと私は今ポジティブに感じています。
だからこそ、もっと多くの人に関心を持ってほしい。
今日訪れたセンターの人曰く、
是非訪れて実際に見てもらいたいと言っていました。
好奇心でそんな事をするのは悪いことだと思ってずっとためらっていたのですが、見て知ってもらう事はすごく大切だしプライバシーの配慮はこちらがきちんと対応するのでためらう事なく是非訪れてほしいと仰っていました。
もし機会があれば、是非実際に起こっている事を、難民支援を行う事で私たちにもたらされる可能性について、是非考えてみてもらいたいです。
そして、日本も難民支援に関われるように、受け入れる側である私たち自身の理解を深めていけたらと思います。
私が刺激を受けた記事
「シリア難民問題は過去のことじゃない」渾身の力でドイツ難民支援プロジェクトのプロモーション映像を製作しました。難民問題はまさにイマ起きてることだから、日本でもまずは地域の難民のことから調べてできる取り組みをしてほしい。ドイツの難民問題の争点もまとめました。https://t.co/29U8hW2moS pic.twitter.com/M1vjDAiEsa
— Aki Youtuber@Germany (@akihiroyasui_) 2018年2月3日
自由を奪うもの?与えるもの?ファッションで最も大切な事〜ムスリムファッションから学ぶ
私が通っている施設の同僚でムスリムの女の子が数名います。
彼女たちの両親は難民としてパレスチナやレバノンからやってきて、彼女たち自身はドイツで生まれ育ったアラブ系ドイツ人です。
彼女たちはヒジャブを被ったムスリムファッションに身を包んでおり、見た目からはアラブ系だと印象を当然受けるのですが、話をすると普通に素朴などこにでもいる女の子です。
アイデンティティは半分、もしくは半分以上がドイツ人かなと思いますが、アラブ系の友人が身近にいなかったので彼女達の存在を新鮮に感じる自分がいます。
最近よく読んでいるちきりんさんのブログの連載記事のひとつの中で、イスラム文化について取り上げたものを読みました。
恥ずかしながら数か月前までちきりんさんの事知らなかった…Twitterすらもやってなかったからね。。
ベルリンに住んでいるとイスラム文化を身近に目にする事が多く、
最近中東の国々に興味が湧いていたところです。
更にこっちに来てからベジタリアン、ヴィーガンの友人も増えたり、
今通っているインターンシップ先でも宗教上の理由で豚肉を食べられない人がいたり、健康上の理由で乳糖類を摂取できない人がいたりで、
食べ物を通じて、様々な事情を抱えた人達との共生について考えていました。
そして、今日の話題はこの記事について。
最近よく一緒に顔を合わせる機会の多い、ムスリムの女の子。
今日喋っていて、話題が彼女のファッションについてとなりました。
私は本当にこれまで知識や興味があまりなくて、漠然したイメージしか持っていなかったんです。
それに、宗教上のファッションのことについて質問するなんて失礼だなと勝手に思っていた。
なので、よく見かけるけどあまり触れちゃいけない事なんだと思っていた。
けれど、昨日読んだちきりんさんのブログが、私の知らない文化に対して良い意味で私の興味関心を掻き立ててくれて、彼女に質問するに当たってすごく純粋なマインドへと私の気持ちを持ち上げてくれました。
どこで買うのかとか、ムスリムでない人が興味を持って着ることがあるのか、など聞くうちに、
(ちなみに、特定のお店に行くこともあれば、H&MやZARAとかで買うこともあるとのこと。完全に中東っぽい恰好をしているわけでなく、こっちでよく見かける女の子たちはうまく色んなアイテムをバランスよく選んで洗練されててお洒落です。
更にムスリムでない人でも着ても全然OKです。そりゃ当たり前か。)
私が一番個人的に気になってたことを聞いてみました。
ムスリムファッションではできない事があります。
肌を過剰に露出したり、身体のラインを見せたり。
でも女の子であれば、そのようなファッションに身を包んでみたくなったりしないのかな?と私は思っていたんです。
特にドイツ人としてドイツで育っていたら、好きに色んなものを着る同世代の子を沢山目にするはずで、羨ましくなったりしないのかな?と思ったんです。
彼女は快く答えてくれました。
そしてその答えが私の予想を上回るもので、私は目から鱗が落ちる思いがしました。
ムスリムファッションに対する私の疑問は、きっと私だけが抱いているものではないはず。
ムスリムファッションはもちろん気候なども影響していると思います。
しかし、中東圏ではまだまだ男性優位の考え方が主流であることから、
私はあのファッションを見て、女性に対する抑圧のイメージを抱いていたんです。
彼女もおそらく、宗教上の理由でそうせざるを得ないから着ているのだと。
制限がある中で彼女らなりにお洒落を楽しんでいるんだろうなと思っていたんです。
なので、お洒落をしたいならもっと肌を見せたり身体のラインが見えるものを着てみたいと思うものじゃないかなと、でも彼女たちはそれができないんだと。
しかし、それは私が勝手に抱いていたイメージに過ぎなかったことが分かりました。
彼女は現在18歳で、16歳からムスリムファッションをまとい始めました。
母親はムスリムファッションを着ていないそうで、彼女が着始める際には本当にいいのか?と母親から聞かれたそうです。
彼女は、多くの人がムスリムファッションが自由を奪うものであると認識している事を知っています。
けれど彼女の気持ちは全く逆です。
彼女はヒジャブを被り、ムスリムファッションに身を包むことでより一層自由を感じられる、と言いました。
グレートな気持ちがして心地よい。だから着ているんだ、それが彼女の答えでした。
彼女は誰からも何からも強制されてムスリムファッションを着たことなど一度もありません。
それは神の意志に背いたこと、と彼女は述べました。
心から着たいと思わないのであれば着るべきではない、というのが神の考えなのよ、と答えてくれました。
私は彼女の答えに心から大きな衝撃を受けました。
自由を奪うものだと私たちが勝手に決めつけていた物が、実は彼女に自由を与えて、彼女を輝かせてくれるものだったなんて!
すごく面白いなと思ったし、狭かった私の世界が一気に広がったように感じました。
ムスリムファッションに身を包む女性全員が彼女と同じ考えをしているかどうかは分かりません。
その場から浮かないようにとりあえず着てる人もいるかもしれないし、何となく落ち着くからという理由などで深く考えずにとりあえず着てる人もいるかもしれません。
その人がどんな社会に住んでどんなコミュニティに属しているかも大きく影響しているでしょう。
ただ、彼女が心から満足してムスリムファッションに身を包んでいるという事実が私をとても幸せな気持ちにしてくれたと同時に、
私が育ってきた文化について考えされられました。
日本で制服がある学校に通っていた人は数多くいると思います。
果たしてあの制服がどれだけ多くの人を幸せにすることができていたのか、考えました。
また、ムスリムの子が日本の学校に通う事になったら、彼らは服装についてどう対処するのか。ヒジャブを被る事が許されるのか、丈の短いジャケットなどはどうするのか。
それとも四の五の言わずにみんなと同じ格好をしろ、と多様性を無視した生徒指導が行われたりしないだろうか
など色んな事が頭をよぎりました。
ドイツはつくづく多様性について寛容であり、生きやすい社会だなと思います。
服装や見た目について何を選んでも(マインド的な意味で)自由である環境において、敢えて「制限(ルール)」のある服装に自らの意志で身を包み、そして心からの幸福を感じる。
これを本当にすごいことだなと思ったし、このような環境で生まれ育つことができて羨ましいとも思いました。
生まれ育ったバックグラウンドも大きな影響があると思うけど、
自分の意志で自分の着たいものを着ること。
そして、誰かが纏っている服装には少なからず理由があって、本人にとって一番落ち着くから着ている。
一番大事なのは自分が輝いていると感じられる事。
誰が何を言おうと関係ない。自分の魂にとって本当に大切なものを選ぶこと。
「着る」という行為の真髄はそこにあるのだ、という事に気付かされました。
服装についてそんな当たり前の事を今まで見過ごして生きてきたし真剣に考える機会なんて持ったことが無かったのに気づかされました。
日本の全体主義的で生まれ育って西欧かぶれした自分の凝り固まった考え方に大きな風穴を開けてくれたムスリムファッション。
最後に、こんな事聞いて失礼じゃなかったか彼女に聞いたのですが、
彼女は、興味があればどんどん聞いてほしい。特権意識を持つような事はしたくないからオープンでいたいってみんな言ってるわ、って答えてくれました。
イスラム教って厳しいけど根っこはとても温かで優しい文化なんじゃないかって思わせてくれた瞬間でした。
ベルリンにいるあいだにもっと知る機会を持てたらと思っています。