外国人として介護職に従事して思う事
言葉の分からない外国人
知的・精神的にハンディキャップのある人達
マイノリティ同士が同じコミュニティに属し、助け合って生活する事はできるのか。
私は「考えるべき課題はあるが、十分可能である」と思います。
私自身、言葉の分からない外国人として、重い障がいのある方の通う施設で働きました。
スタッフに大いに助けられながらも、利用者さん達の介助や生活の手助けを仕事としてさせていただきました。
結果、私としても大いに学べる機会になったし、利用者さん達にとっても外国人に触れ合う刺激的な経験となったと思います。(実際、スタッフからそのような言葉をいただきました。)
私が「外国人というマイノリティの立場」で介護職に従事し、感じた事をまとめます。
まずは言葉の壁について。
いくら介護技術に優れていても、言葉が理解できなければコミュケーションに齟齬が生じます。
インターンシップを始めた当初は特に、利用者の言ってる事がほとんど理解できず、何をしてほしいのかも分からない。更に私が何かしてあげたくても、それを伝える事ができない。本当にもどかしかった。
更に、緊急時対応の際は、医療機関や保護者と連絡を取らなければならない。利用者さんの身に起こった状況をきちんと伝える事ができる言語能力は必須です。
介護職に従事するならば、言語はきちんとできておかなければならない。これはハッキリ断言できます。
かたや一方、言語だけが全てではない、とも思います。
私がそう感じたのは、耳の聞こえない利用者の方と接した時です。
とあるグループで、よく介助させていただいていた方は、耳がまったく聞こえず手話も理解できない方でした。なので、コミュニケーションは身振り手振り。
ほのぼののオープンな方で、私の事も受け入れてくださいました。
私もその方となんとかコミュニケーションを取ろうとしっかり向き合ったのが相手に通じたのかなと思います。
こういった非言語コミュニケーションは、介護において非常に重要です。
表情、声のトーン、ポンと肩を叩く、など、言葉の内容以外からの内容で相手に何かを伝える事は可能です。コミュニケーションで相手に伝える事ができる情報は、非言語的コミュニケーションが優先的に相手に伝わるそうです。
利用者の方は、難しい言葉の内容が理解できない方が多いので、このような非言語的コミュニケーションから何かを読み取っている方は数多くいます。
私の場合、前職で重症心身障害者の方とよく接していたので、むしろこのような非言語的コミュニケーションには慣れていました。
それもあって、Mosaikの利用者さんとも馴染むのが早かったのかもしれません。
なので、利用者さんとの関係作りにおいては、言語が全てではない。
言語を超えた何かが確かに存在する!と私は確信しています。
生活習慣の違いも少し私を戸惑わせた要因でした。
Mosaikでは朝ごはん、お昼ご飯はみんなで食べるのですが、私は自分の食事が終わって何かできる片づけをしようと席を立つとスタッフからそれを注意されました。
でも、確かにみんなで食卓を囲んでいるのに誰かが急にせかせか動き出すと食べてる人は落ち着かないし、利用者さんにとっても良い見本じゃないよなと後で思いました。
皆で食卓を囲む事を大切にする文化がそこにはありました。
日本では真逆でした。日中忙しすぎて、スタッフは食事を済ませた側からサッサと動き始める。いつまでも座っていたらチクリと注意される…そんな職場文化で育ったので、食後サッと動いて片づける習慣が身に付いていました。
更に言えば、女性にそんな役割を求める文化が日本にはまだまだ根深く存在している、とも思います。欧米圏では家事は男女平等負担が基本です。だから食洗機が多くの一般家庭で当たり前に普及している。
利用者さんの多くが、生活が「いつも通り」でないと安心を感じられません。
私は経験した事がないのですが、特に老人介護においては生活習慣は大切かもしれません。
ある意味矛盾しているかもしれないのですが、生活に刺激を与えてメリハリをつけるのも大事です。さもないと感性が衰えてしまう。
更に私自身も、上記の食卓での経験から、「自分がよかれと思ってやったことが相手に迷惑なるのではないか」と悩む事もありました。
前職ではとにかく空気を読んで、相手が必要としている事を読んでサッと用意する支援。
Mosaikでは相手が言うまで待って(難しい場合は少しずつ慣れるように支援する)、それから相手に自分で用意させるよう支援する。
「支援」に対する考え方がかなり異なるのです。
私はMosaik式のやり方が好きです。突き放したようにも見えますが、利用者が自分で発言する力を身に付け、より自立した生活を送れるよう支援する。
そんなMosaikで日本式のやり方をやろうとした私は、利用者さんのできる事を奪ってしまいかけて、すぐにスタッフに注意されて気付きました。
マイノリティ同士の共存という観点ではどうでしょう。
利用者さん達も私がドイツ語が十分に理解できないのを分かっている方もいました。
私も彼らが物事の理解がスローであるのを理解していました。
彼らは彼らなりに私を手伝ったり助けようとしてくれました。
休憩所のドアを開ける役割を担ってくれた人、お皿洗いを手伝ってくれた人、コーヒーを一緒に作る役割をしてくれた人。。。
言葉が分からない外国人である私がそこに存在する事で、彼らが私を手伝うという「役割」が発生しました。
言葉が分からないために迷惑をかけることもありましたが、逆に言えば、迷惑をかけるからこそ、誰かがやらねばならない「役割」がそこに発生するのです。
私は、彼らが成す「役割」に敢えて乗っかりました。
そこにあるのは「共存」だったと私は思っています。
外国人である事のマイノリティ、
障がい者である事のマイノリティ、
それぞれ社会で生活するのに困難を感じます。
社会的困難を抱えたもの同士、足りないものをお互いに補いながら支え合っていく。
これからの福祉の在り方のヒントがここに隠れていると私は確信めいたものを感じました。
外国人という立場で介護職に従事した、そんな私が思う事です。
是非日本で介護職をされている方は、一度海外でボランティアなどを経験されてみる事を強くお勧めします!