生産性の奴隷となるか、「ともに生きる」か~NHKスペシャル「ともに生きる~障害者殺傷事件2年の記録~」鑑賞
あの凄惨な事件から二年。
まだ二年しか経っていないのか、とこうしてみると驚きます。
この二年の間に本当に色んな事が変わり、感覚的には五年経ったような気がしています。
物事や人々の認識を一気に変えてしまう、それほどの衝撃があの事件にはあったのかもしれません。
NHKスペシャル「ともに生きる~障害者殺傷事件2年の記録~」鑑賞しました。
未だに頑なに主張を変えず、意思表示困難な重度障害者を「心失者」と自ら作り出した言葉で形容する被告。
それに対して「いいや、心を失くしてはいないよ。」と語るのは和光大学教授の最首悟(さいしゅさとる)氏。彼には重度の障害を持つ娘さんがおられます。
最首氏の投げかける言葉を軸に、あの事件以降2年間それぞれの人々の歩みを追うというものでした。
重い障害を持つ当事者は意思疎通が困難なために本人の意志は無視されがちです。そんなこれまでの個を重視せずに押さえつける管理型の支援から前進し、「見えにくかった本人の意思」を汲み取り丁寧に向き合っていこうとする周りの人達の働きかけを通じて、当事者が生き生きと感情の輝きを見せ始める過程を番組では見せてくれました。
まるで「心失者」という言葉を使う被告に向けて、「いいや、そんな事ないよ。見てごらん」と語りかけるように、最首氏の穏やかな語り口かのような優しい目線を感じました。
当事者と関わる事を通じて何かを感じ学び取ろうとする人達、
障害者の存在を「必要だ」と言い切り地域で共に働く場を作った人、
事件がきっかけで転職し障害者と向き合う事を選んだ人、
その場に当たり前にいる家族として愛おしい眼差しを娘に向ける最首夫婦、、、
「ともに生きる」事を実践する人々を映し出していました。
NHKスペシャルの番組内で、被告に接見した学生が「あの主張に引き込まれそうになるのを感じた」と述べていました。
植松被告の主張は、純粋に経済的観点から見たら「正しいのだろうか」。
「生産性の無い」障害者は生きるに値しないのか。
障害者は周りを不幸にしかしないのか。
日本経済において「生産性の無い人間は生きる価値が無いのか」
私も正直なところ、彼の言葉に引っ張られそうになる気持ちを理解できます。
私は前職で、障害を持つ方が通う生活介護施設で現場スタッフとして勤務していました。
特に重度の方向けの施設だったので、利用者のほとんどが障害区分6という障害の認定レベルが最も高い重度の障害を持つ方ばかり。私の感覚ではもはや障害区分6という括りを超えるのではないかと思うほどの重い障害を持つ方さえもいました。
一歩間違えればいとも簡単に命を失ってしまうような人も沢山おられました。
意思表示が困難な本人を前にして、「生き長らえているのは結局家族や周辺の者のエゴでは無いのだろうか」「本人やご家族もこんなに大変な思いをするのならいっそ楽になった方がいいのではないだろうか」と在職中自問自答する事も何度もありました。
日本には数多くの社会問題があり、予算が厳しい状況にあるのも分かっています。
あのような強い主張を前にし、更に多くの人が被告の意見に賛同しているのを見ると、支援者である私でさえ心が折れそうな気持ちを覚えました。いや、支援者として側で色々見てきたから尚更だったのかもしれません。
しかし、それと同時にその主張に対して決して譲れないものがあります。私の心をへし折られることはありません。
私は経済のプロではないですが、純粋に経済的観点から見れば彼の主張は「正しい」と言えるかもしれません。
しかし、彼の主張に基づいた経済活動を行なっていくとすると、「生産性が無い」という理由で切り捨てられる層がどんどん下から上に向けて厚みを増していくでしょう。
明日は我が身。いつ切り捨てられてもおかしくない。常に殺伐としながら追い立てられるように生産性を高めていかなければならなくなり、失敗が死を意味する時代が来るでしょう。
極端な表現を敢えてしましたが、「生産性の無い」人間の切り捨てを簡単に容認するとはそういう事です。
最近「生産性」を高める事がブームになっています。
「生産性」を高める事自体悪い事ではありません。むしろ必要な事です。
しかし、被告の言葉に引っ張られる人が多かったように、多くの人達が「生産性」の奴隷となっているように、私は時々感じます。
番組中で、「障害者は世の中に必要だ」と断言した人がいました。
私もその言葉に強く同意します。
ミヒャエルエンデの「モモ」という作品をご存知でしょうか。
- 作者: ミヒャエル・エンデ,大島かおり
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/16
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作中で、モモはあまり物も言わない(挙動不審な)不思議な子供として描かれています。
でも、モモの家を訪ねて自分の悩みをモモに聞いてもらうと、なぜだか分からないけど元気が湧いてきて不思議と悩みが解決するのです。モモは悩みに特にコメントすることなく、ウンウンと聞いてるだけなのに。
モモの家を訪ねていたお友達は、どこかの大会社が配る怪しげなタバコを吸った事で、都会で稼ぐために仕事に熱中するようになり、モモの家を訪ねることもなくなります。
彼らは働く事で豊かになっては欲しいものを買って消費、更に消費するためにまた働き、また更に消費する、、といった終わりないループに陥り、心を殺し魂が死んだように働き続ける、、、
今私たちは社会において好きで消費がしたくて働いてるわけじゃなく、生産性を高めて働かないともう経済が回らないのは事実です。
先ほど述べたように生産性を高める事自体は悪いことではないし、私も生産性を高める事は好きです。
けれど、生産性が無い人を真っ向から否定する事は先程も述べたように自らに刃を向けるのと同じ事になりかねません。
だから、モモのように特に何も言わないけど話を聞いてくれるような存在が必要なのです。
ただ、そこにいるだけで周りの人が自然と優しくなるような存在。
生産性なんて関係なく、在るがままの自分を全肯定する事が人生のミッションであるような存在。
生産性なんてどーでもいいやガハハハーって笑い飛ばしたくなるような気持ちにさせてくれる存在。
私はそれが重い障害を持つ人達がこの世に存在するのに十分な理由だと思うのです。
それが彼らがこの世に生まれてきたミッションであり、彼らはメッセンジャーであると私は思っています。
少なくとも、何かしらの理由があって生まれてきた以上、彼らを排除する事は決して現実的ではないし、障害者を見えない存在にする事は決してリアルではなくそんな社会はただの虚構に過ぎません。
「ともに生きる」事は難しいようで、実はとても簡単だと私は思うのです。
重い障害があろうとなかろうと、人間らしい「心」がそこに在るのだと気付くことができた瞬間、見えない壁が少しずつ崩れていくのかもしれません。
そのハードルを下げていく事がこれからの支援者の役目なのだと私は思っています。
やまゆり事件の関連で、パンドラの箱の解釈として、意を決してもう1回開けて希望を飛び出させたと書いて、さらに新解釈、すでに皆がもっているから、希望は箱に残ってもよかったのだ。そして、飛び出たもろもろの災厄は、希望が既にそこにあることを気づかせる役目も担っているのではないか、とした。
— 最首悟 (@ssaishu) July 17, 2018
希望を感じました。ともに生きましょう。