発信し続ける事~飛騨市長の新聞記事を読んで感じた事
先日Twitter上で見かけたこの記事。
都竹飛騨市長の「障がい児の親として」、岐阜新聞2月11日付 pic.twitter.com/lKWrXoxjhW
— Yukihiro Masuda (@Masuda_Slovakia) 2018年2月12日
日本の政治家の人がこんなに率直で誠実に表明するのなんて、初めて見たかもしれない。
Twitter、Facebookページもあります。ソーシャルメディアを積極的に活用しているところにも好感が持てます。
今回の記事のもととなったFacebookからの記事
今回、私は都竹市長のこの新聞記事に強く共感し、このような信念を抱いた方が市長として街づくりのトップに立たれた事を、そしてこのような意見を新聞記事を通じて発信してくれたことをとても嬉しく思います。
都竹市長は最重度の知的障がいを持つ自閉症児のお子さんをお持ちとのこと。
(前略)…自分自身も障がいのある子を持って大きく変わったと思う。
次男のいいところはどこだろうと毎日見ているうちに、同じように職場の部下や同僚を見るようになり、強みを伸ばす組織運営をするようになった。弱い立場の人たちを意識するようになり、障がい児者だけでなく、病気や生活困窮、ひとり親家庭など、厳しい状況にある人たちを助けたいと思うようになった。
ー素描「障がい児の親として」岐阜新聞2月11日付より引用
私が特に強く共感を抱いたのはここです。
なぜなら、重い障がいを持つ人を社会にどんどん巻き込んでいくべき理由がここにあるからです。
私が重い障害を持つ人を社会に巻き込んでいく意義を感じるのはまさにここです。
— pco (@hurra_pco) 2018年2月13日
急ぎすぎて重要な物事を見落としている私達に気付きを与えてくれる存在です。そういう意味で私は彼らをメッセンジャーだと思っています。 https://t.co/pKPOwsh1rv
私たちの社会は今日非常に目まぐるしく進歩しています。置いていかれないようについていくのに時々疲れを感じるほどに。
そんな中で、障害のある人と関わりを持ってみると、テクノロジーや情報の進化はものすごいスピードで進んでるけど、人間が生きる速度そのものは全く変わっていないなぁと気付かされます。
そして、何かに追い立てられるように生きている私たちと、障がいがあって様々な事に支障があるもののマイペースにのんびり生きている彼らと、果たしてどちらが健全なのか、と度々考えさせられることがあります。
市長が言っていたような、重い障がいを持つ彼らのいいところはどこだろうという観点で見ると、誰が何を言おうとマイペースに過ごすのが非常に得意であるとも言えるかもしれません。
私もかつて人と比べて自分で自分を疲弊させていました。誰かが何かを言ってきたわけではないのに、SNSなどから流れてくる膨大な情報で一人で勝手に劣等感を感じ、知らない間に終わらないパワーゲームを繰り広げ続けてきました。
支援者として重心障がい者の人達と接し始めて、彼らの周りで流れるゆっくりとした時間にハッとさせられた瞬間の衝撃は忘れられません。
また、弱い立場の人を意識するようになるという点も、彼らを社会にどんどん巻き込んでいくべき理由のひとつです。
問題を抱えた人をひとつの場所に隔離して管理するのは簡単です。
でも私はそれが健全だと思いませんし、世の中のリアルじゃないと思います。
以前ルームメイトだったドイツ人の女の子がこう言っていました。
彼女はミュンヘン出身ですが、ベルリンの方が好きだと言います。
ベルリンの方が明らかに汚いし、浮浪者も沢山見かけるのが日常です。
ミュンヘンにはそんな人はいないし、街はとてもきれいだとのこと。
でも、ミュンヘンにも絶対浮浪者はいるはずなのに、じゃあどこにいるんだと。そんなの世の中のリアルじゃないし、そういう意味ではベルリンの方が健全に世の中のリアルを表していると。
国、人種、セクシャルアイデンティティ、ハンディキャップなど、様々な人が存在しそれがベルリンという街を個性的なものにしている。
ベルリンほど多様性に富み且つマイノリティの人でも生きていきやすい街はありません。
私も支援者として障がいを持つ人達と接するようになり、彼らの人となりや、ご家族の思いに触れさせていただきました。
私も市長が自身のお子さんを通じて経験されたことと同じような気付きを得ました。
今の世の中、障がいがあるからと言ってあからさまに差別を受けるような事はだんだん減っています。
(それは数十年間、多くの当事者、ご家族、支援者が見えない差別と闘ってきたからです。)
施設などのバリアフリー設備は多くの場所で整ってきました。
それでも、完全に生きやすさを感じられるようになったわけではないと思います。
施設の設備を作り替えるのはある意味簡単です。大がかりな工事をしてエレベーターや優先トイレを設置する事自体がハンディキャップを抱えた人達に対する配慮をしている、という公共の認識であると捉えられます。
ハード面を整えるのはもちろん大切です。しかし、工事をしたらそれで終わりというわけではありません。
社会で生きていくためには多くの人とともにコミュニティに属する必要があり、マイノリティである事や弱い立場であることを理解してもらい協力してもらう必要があります。
人の心が一番大切だ、と私は思うのです。
見えない差別は、そのマイノリティの立場に対する知識や関心の欠如から起こり、それがその立場の人達への共感の欠如を形成します。
分かりやすい例を挙げるなら、日本人しかいない街に全く日本語の分からない人がいるとします。
日本語が分からないから、買い物すらもできないほどにその街での生活に不便を感じる。
これじゃあフェアーじゃないよねと誰かが気付いて、英語でのフォローが始まり、外国人の人でも生活に不便を感じない環境が整っていきます。
車いすに乗っている方でも、視力聴力に不自由がある方でも、知的精神的ハンディキャップを抱える人でも同じ。
社会に出て実際に不便を感じる状況に遭遇し、それを改善するという流れです。
これだと、ハード面(施設のバリアフリー設備など)のイメージを想起しやすいと思うけど、制度に関しても同じ。
子育て中の親御さんが保育園落ちたらなぜ大変なのか、シングルペアレント家庭の親御さんの生活がなぜ大変なのか、障がいを持つ子の親御さんが一人の時間をなかなか持てなくてなぜ大変なのか、生活困窮者がなぜ貧困から抜け出せないのか、
制度によって不便を感じる状況に遭遇し、それを改善する…という流れになったらいいんですが、これがなかなか上手くいかないというのが今私たちがニュースなどで見聞きしている状況だと思います。
これは、制度により感じる不便が多くに人達の目に見えないからです。
それは、そこで不便を感じている人達に対する理解や共感が欠如しているという事になります。
私が冒頭でシェアをしたツイートを見ていて、障がいを持つお子さんの親御さんであったり実際に弱い立場にある当事者の方々からのリプライが目立っていました。
市長のように弱い立場に理解のある方が街づくりの実践をするポジションに立ってもらえるのが一番ではあります。
もちろん経済活性化なども大切です。なので、各コミュニティにおける優先順位というものもあるかもしれません。(そう思うと街づくりってめっちゃ大変ですね!!)
まぁ後はコネの関係もあったり(案外これが一番だったり?)、
なので、実際はなかなかそうはいかないというのが実のところだと思います。
でも、実際にマイノリティや弱い立場にある当事者は、困難にぶつかり実際に見知った事を発信できます。
あのツイートのリプライ欄を見てそれを確信しました。
今は誰もが思いや考えを発信できる時代になりました。
昔はそれができず、悔しい思いで唇を噛みしめてきた人が数多くいたはずです。
泣き寝入りをせざるを得なかった人も沢山いるはずです。
でももう泣き寝入りしたままでいなくてもいい。
見えない差別を発信して可視化する事ができる時代なんです。
当事者として、または当事者の思いを代弁する立場として、社会を変えたいと思う人は沢山いるはずです。
でもみんながみんな、街づくりや制度づくりに携われない。
ならば、実際に見知って体験した思いをどんどん発信していきましょう!!
それが世論形成につながり、世の中を動かしていきます!
私は障がいを持つ人ではありません。
そんな私が思いを発信する事は、果たして当事者の思いに適っている事なのだろうか、
勝手な解釈や思い込みで、彼らの本当の思いをかき消してはいないだろうか、
そう思って発信をためらう事もあります。
だけど、もう私には黙っているような時間はないんだと気付きました。
ためらい、悩み続ける事が発信する立場としての使命なのだと思います。
今回の都竹市長の新聞記事に強い勇気をもらうことができました。
社会を変えていくのは人の思いであると信じて!
障害者の性にまつわる話~一筋縄ではいかないケースに出会った件
今日いつもの通ってる施設で、とある利用者さんについて聞いたケース。
女性の方で知的障がいがある方なのですが、しばらく前から誰かと性的関係を持つ事、および妊娠して出産する事に強い興味を抱いているという話を聞きました。
実際に支援者として関わる利用者さんの中で、誰かに恋愛感情を抱くというケースには割とよく遭遇していたのですが、性的関係を持つ事を希望する方に遭遇するのは初めてでした。
その方が毎日そんな事を口にしているというわけではありません。
ただ、以前からそのような事を度々口にしているため、少し注意して見守る必要がある、とのことでした。
更に同じグループ内には、ドイツの支援団体を通じて実際に性交渉を持った男性の方がいました。
自閉症をお持ちの方で本人だけで判断する事が困難な方だと思うのですが、ご家族が判断され、そういう結果に至ったとのことです。(その過程はさすがに詳しくは聞きませんでしたが、なんとなく想像できます。)
支援団体が斡旋したサービスを有料で受ける形のようです。
んで、上記の女性の方がそのサービスを受けられないのかと聞いてみたら、
女性向けのサービスが見つかりにくいようで、(妊娠させてしまうリスクがあるためかと思います)
加えてその方のご家庭の宗教上の理由で、ご家族はその件について話題にしたくない。当人がそのような性的衝動をお持ちである事を認めたがらないようです。
宗教が絡んでくると、なかなか難しいですね…
障害者のノーマライゼーションの問題は、まだ解決しやすいと思います。
大変ではあるけど、どんどん前例を作っていけば、そこに道ができていきます。
でも宗教の問題は、道をイメージして考えたら、行き止まりに突き当たって、地図を見ていたらその土地の歴史まで振り返って勉強して、その土地の地元の人と交渉しないとその行き止まりの通過を通過することができない、みたいな感覚だと私は思います。
障害者の性を巡って議論が為されてきたのはここ近年の話であると思います。
私が障害者を巡る性について初めて意識をしたのはこの本から。
読んだのは10年前ぐらい。
へー!こんな事している人達が世の中にいるんだ!というのがまず感じた印象でした。
日本で障害者や風俗の話題がいかにタブー視されているか、単体でも触れづらい問題なのにコンビネーションとなると、もう見ないフリー!っていう勢いの扱いだと思います。
本の中で出てくる人たちや団体の取り組みはすごく面白かったし、当事者の人たちのリアルな本音も伺い知ることができました。
しばらくしてからこの映画も見ました。
日本ではR-18指定になってるこの映画。
アメリカでの実話を基にされています。呼吸機能を損なってしまった全身性まひの人が鋼鉄のゆりかごと呼ばれている機械に入らないと生きていけなかった頃の話。
今は本当に技術が進歩して当事者の人の行動範囲は広くなったけど、技術が無かった昔は今に比べて本当に生きづらかったし、色んな事を諦めなければならない時代だったんだなと改めて思います。
確かにセックスシーンがおおっぴらになってるから、日本の基準だとR-18になってしまうのかもしれない。
だけど、私はこの作品から決していやらしさなんて感じなかった。
一人の男性が、困難を抱えながらも、周囲の人たちと心を通わせながら、自身の性の悩みを乗り越えて男性としての自信を取り戻す。
人の心だから、触れ合いを通じて望まなかった愛が発生してしまう。それに戸惑ったりもする。
セックスは人間にとって欠かせない素晴らしいものなんだなと思うし、同時に誰かを傷つけてしまうかもしれない、諸刃の剣のようなものかもしれない。
色々考えされられる作品でした。
障害者についてだけでなく、セックスそのものの純粋さについても考えされられます。
んで、私があの本を読んでから10年経ったけど、世の中は変わったのかな、と思って検索してみたら、
なんと!日本でそんな映画が公開されてたんですね!
しかもリリーフランキー!!私の大好きな!!リリーフランキー!!!
リリーフランキーほんとすごいな。。。
しかも劇中歌が銀杏ボーイズのBABYBABY!!
これは是非見たい!つか、劇場で見たかった!!
日本にいなかったのが本当に悔やまれる。。。
WHO・世界保健機関は、障害のある人たちの性の問題について、福祉の現場でも相談に応じることなどを推奨しています。またオランダでは、障害のある人が性的な介助を受ける場合に、地域によって保険の適用を受けることができます。ドイツでは20年以上前から、福祉の専門職の教育課程で、性の問題への対応を教えています。
…クローズアップ現代HPより
へー!そうなんだ!素晴らしい!!
上記のクロ現の記事、映画を見ずとも是非読んでもらいたいです。
私が頷きまくる事だらけです。
冒頭で触れた女性の方が、セックスに興味や好奇心を持っている事について、
人間として、女の子として当たり前の事だよなぁと、自分自身の人生を振り返りながら思いました。
おそらく施設側もできれば力になってあげたいと思っているのだと私は思います。
上記の引用通り、ドイツでは障害者の性の問題の対応が進んでいるようだし、施設内に実際に障害者の性を支援する団体のサポートを受けたケースもあるので。
彼女の場合、家庭の事情と本人の希望を擦り合わせていく事が非常に困難であるのが問題なのだと私は理解しました。
こうして障害者の性についておおっぴらに語り合える環境が果たして日本でどれだけあるのだろうかと考えます。
クロ現のインタビューの中に、回答に戸惑っている、何をコメントしたらいいのか分からない、といった感じの回答も見られましたが、
リリーさんがおっしゃってる通り、自分ならどうしたいと思うかと考えてみるのが一番シンプルですよね。
別に実際にそういう介助をしろ、なんて誰も一言も言っていない。それはあなたの仕事ではなく、実際に性的なサービスをしてくれる方の仕事です。
そうじゃなくて、人間として当たり前に感じる恋愛感情、性的衝動が彼らにもあるんだというのを理解するだけでまずは十分だと思うんです。
ドイツやオランダなどでは障害者の性への対処のための社会的サポートができています。
日本はまだその土壌づくりがやっと始まったという段階だと思います。
もし興味を持ってもらえたら、ここで紹介した作品を見てもらったり、(ここからリンクに飛べって言ってるわけじゃないですよ!(笑))、
各々で調べてもらえたら嬉しいです。
日本社会が、そして私たちのマインドが、いかに、性を、障害者を、タブー視してきたかが浮かび上がってきます。逆にそのような話題に比較的オープンである西欧圏とも比較してもらえたら面白いかと思います
また、たとえばイスラム教や厳格なキリスト教宗派など宗教的観点から、性をタブー視する傾向もあるため、その辺りも考慮して考えると事情の複雑さがより理解できるかと思います。
色々考えされられました。
って、もうDVD化されるのか!早いな!!
ready forクラウドファンディング達成映画「はたらく」全国ロードショー!!一足先に鑑賞させていただきました。
先日ready forにてクラウドファンディングを達成した、ロゴスフィルムによる映画「はたらく」。
自閉症の方に仕事として俳優をやっていただき、働くこととは何かについて考える、というコンセプトに強く興味を抱き、私もクラウドファンディングに参加しました。
見事に目標を達成し、映画「はたらく」がついに明日から全国公開されます。
クラウドファンディングのリターンは映画観賞券だったのですが、映画館に赴くのが難しい人向けにオンデマンド視聴コードがリターンとして贈られました。
私は日本で映画館に行くことができないので、オンデマンド視聴コードを希望し、
全国ロードショー前に鑑賞させていただきました!!
(あらすじ)
映画監督のさいとうは自閉症を持つしょうへいに新作映画「はたらく」の主演を依頼し、しょうへいは快諾する。監督としょうへい二人での映画撮影をするための練習が始まるが、しょうへいにとっては難しいことが多くなかなかうまくいかず、映画撮影が実際にできるのか心配を抱える監督。困っている監督に一緒に練習をする俳優仲間が与えられ、本格的(?)に映画撮影のための練習が始まる。しょうへいは映画俳優としての仕事を全うすることができるだろうか?そして本番の映画撮影に入り、どのような作品が完成するのだろうか?
・・・ロゴスフィルムHP「はたらく」作品紹介ページより引用
映画前半から中盤にかけてしょうへいさんと監督たちが映画作成に向けて、しょうへいさんと俳優としての演技の練習に取り組みながら、作品づくりを模索していく姿が描かれ、終盤で完成したショートフィルムが映画の中に盛り込まれているという、メタフィクション形式のドキュメンタリーです。
監督は映画製作業の傍ら、福祉職にも従事されており、しょうへいさんのようなケースをお持ちの方について理解がある方です。
支援者として「自閉症の人はこうである」という前提を抜け出し、自閉症を持つ人と一緒に映画づくりに取り組む姿はとても興味深かったです。
しょうへいさんのようなケースの方は、私も今ベルリンで通ってる施設で沢山見てきたので、正直「おいおい大丈夫か」と思う場面もありましたし、監督も作品中で自問自答されています。
映画が進むにつれ、自閉症についてどのようなものか知っている私自身が、前提に捉われていた事に気づかされ、ハッとさせられました。
私のような知識のある人間が、色々見知って分かっているがゆえに、障害のある人達に対する前提を勝手に作り出し、その枠に彼らを当てはめていたことに気付かされたのです。
作品では皆それぞれが奮闘する中で、しょうへいさん、俳優陣がお互いに対する理解を深めて各々が成長する姿が見られます。
また、作品を通じて「働く」ことの意味について考えさせられます。
お金をもらうために働くのか
食べるために働くのか
しんどい事を我慢することが働くことなのか
生きがいを感じることが働くことなのか
社会に参画し人と繋がる事が働くことなのか
自身が輝くことが働くことなのか
働いているという意識を感じるために働くのか
答えは各々で見つけるものだと思うし、私自身もはっきりとした答えを見つけきれていません。
しょうへいさんが慣れない俳優業に取り組もうとする姿、
監督や俳優陣がしょうへいさんを巻き込んで映画づくりをする姿、
それぞれから働く事とは?と考えさせられますし、
私は何より、しょうへいさんの笑顔が「はたらく」ことの意味を物語っている。そのように感じられてなりません。
最後にしょうへいさんは、俳優とは?と聞かれ、「仕事です」と答えます。
結果的にそう言わせただけじゃないか、という議論も起こるかもしれません。
ただ、私はそういう問題提起を起こす事自体に意味があると思います。
重い障害をもつ人を社会に巻き込んでいく事は、彼らにとって多少スピーディーすぎることである場合が多々ですし、ピアサポートの視点を欠いてしまう場合もあるかと思います。
ただ、だからといって、この課題を置きっぱなしにしていいのでしょうか?
答えを出すのが難しい問題だからこそ、多くの人からの考えや意見を求める価値があるし、社会問題の解決はそうやって成されていくのではないでしょうか??
私は重い障害を持つ人を社会に巻き込んでいく事に可能性を感じています。でも、その原石を掘り起こす方法がまだ分かりません。
だから、多くの人に関心をもってもらい、様々な視点から意見を聞きたい。
それが大きな動きの力に繋がるかもしれない。そう強く願っています。
最後に、私個人がここから感じた事は、言ってることはさておき、本人がとても満足そうな顔をしているし、俳優として仕事をし、作品において欠かす事のできない存在感を示すことができた。
もうそれだけで十分じゃないかな、とも思ったりするのです。
映画「はたらく」、多くの人に鑑賞してもらえたらと思います。