アートセラピー見学
私が勤務していたインターンシップ先では、理学療法、アート療法、音楽療法が実践されており、それぞれ理学療法士、芸術療法士、音楽療法士が勤務しています。
理学療法はよく前職で利用者さんに連れ添って見学していましたが、アート療法、音楽療法の実践を見たことがありませんでした。
欧米圏では芸術療法、音楽療法ともに、正式な医療として認めらています。
それ以外の地域ではどうかは分かりませんが、少なくとも日本ではどちらかというとレクリエーション扱い。
うーん、、、なんだかなぁ。。。
これには、欧米圏は精神分析学の発祥の地であることも関係していると思います。
クライアントの心に潜む問題を探るために、音楽や芸術を媒介にする、というのが私の理解です。
日本もアート療法を!音楽療法を!という議論はここではしません。
今回はアートセラピー見学させてもらった時の話。
前からアートセラピーに関心を見せており、少し前に見学させてくれと勢いで乗り込んでいったとき、「うーん今日はちょっと...また今度ね!」と断られてしまったこともあり、
タイミングを見計らっていたのですが、
「今日はいいわよ!」とセラピストのニナが声をかけてくれたので、見学と相成りました。
まず入所してすぐ、様々なセラピーのお試し期間で利用者の興味関心・ニーズを探り、
利用者ごとに芸術、音楽、運動など、それぞれにスケジュールが組まれます。
音楽やエクササイズなど、場合によって複数名で行うものもありますが、ここでのアートセラピーはセラピストがクライアントと1対1のセッションを行うもの。
この日の利用者さんは1人で作業に取り組める人だったので、利用者さんが絵を描いている側でニナは私に沢山説明をしてくれました。
画材道具を一通り見せてくれた後、奥の方にしまってあった大きなファイリングされたものを取り出して見せてくれました。
それはこれまでのセッションで利用者さん達が描いてきた作品でした。
この絵を私に見せてくれながら、ニナはこの絵に込められたものについて語り始めました。
アートセラピーはただ絵を描いて楽しむためだけのものではありません。
レクリエーションを兼ねた目的もありますが、それだけではありません。
クライアントが生み出す作品を通じて、本人の内面、感情が現れます。
セラピストはそこに現れた表現を読み取り、クライアントが心に抱えているものを読み取っていきます。
つまり、アートを通じたカウンセリングです。
アート活動そのものよりも、心理学的知見が大きな比重を占めます。
カウンセリングなので、その場で創造されたものはセラピストとクライアントだけのものです。
セラピストによって外に持ち出されることは決してありません。個人情報と同じ扱いです。
もちろん、描くこと、作品をつくること自体から癒しを感じるセラピーでもあります。
ここでの利用者の多くは重い障害のゆえにほとんど常時誰かの見守りを必要とする方が沢山おられます。
常に誰かに見られている、多数の目にさらされている生活を余儀なくされているのです。
アートセラピーはほんのつかの間でも一人の世界に入って没頭できる時間の確保にもなります。
セラピストはセッションの間、クライアントのやることに特に指図をしません。
もしクライアントが何かを求めている様子を見せたら、何か提案したり作業へのアドバイスはします。
でも、クライアントが制作するものに一切手出しはしないし、たとえ何もやりたくないと言っても全然OKです。
また、ニナはクライアントの話を聞くだけに徹することもあるそうです。
利用者は先ほど述べたように常に誰かに観られている生活。自分のやる事成す事を家族や施設職員に大体知られている。
ニナは話を聞く人としての役割も果たし、クライアントにとって秘密を共有できる存在としての役割も果たす事がある、と言っていました。(もちろん、例えば虐待をにおわせるような重大な情報のようなものであれば、利用者の担当スタッフに確認を取ります)
制作活動を通じ何かを積み重ねる事を経験する事で、内面の精神的な解放や成長の手助けに繋がります。
例えば、あるクライアントは絵を描き始めると、ニナが止めなければいつまでも書き続けていたそうなのですが、
今では自分でいつ終えていいか決めれるようになったし、使いたい色も自分で決められるようになったそうです。
これも、制作活動を続け、自分で選択する意思決定の経験を積んだためです。些細な事ではあるかもしれませんが、成長の証です。
物事の理解をするのに時間がかかってしまう彼らにとって、現実世界はものすごいスピードで進んでいます。
せわしなく動いていく現実世界でクライアントは無視されがちな存在でもあります。
自分の意志を行使する機会を十分に得ることなく、ここまで来てしまったのはそのためです。
創造行為を通じて、自分の意思決定を行使する体験を積み重ねること。
それが自身にもつながるし、その成功体験が普段の生活へと還元されます。
生活行為もクリエイティブな行為と言えます。
赤ちゃんが食事をし始めたばかりのころ、食べ物で遊ぼうとするのも創造行為の1つです。
「自分」と「自分以外のなにか」を自覚する行為でもあります。
こんなケースもあったそうです。
とある利用者とのセッションで、水道のシンクに水を溜めて、それでひたすら触った感触を楽しむという遊びをしていたそうです。
色を水に加えてみると、クライアントの反応が変わりました。
また色を足してみる、または別の物体を浮かべてみる。その度に反応を見せます。
そうするうちに本人の内面から何かが沸き上がってきたのか涙を流し始めたそうです。
何がそうさせたのか、何を心に抱えていたのか、ニナには正確には計り知れない事だったそうですが、大事なのは感情を表に出した事。
このようにアートセラピーは必ずしも制作活動をするわけではなく、本人なりのクリエイティブな行為を実践する場でもあります。
絵画だけでなく、立体造形もするし、身体パフォーマンスもするそうです。
パフォーマンスは即興表現の1つ。クライアントからの反応にセラピストも身体表現で応えます。
彼らにとってプリミティブなコミュニケーションの手段のひとつでもあるのです。
ニナはとても情熱たっぷりに色んな事を伝えてくれ、私は少し圧倒されてしまいました。
彼女の優しさ、クライアントの可能性を引き出し、彼らの心に秘めたものにコンタクトしようとする真摯さ、芸術や心理学への知見の大きさ、何よりも彼女の心に秘めた情熱。
セッションを通じて色んなものを見てきたからこそ、なのだと思います。私の想像を絶する世界が広がっているようでした。
ニナは、アートセラピーは決して強制されるようなものではないこと、
何を表現しても許されるし、自分の恐れや怒りや悲しみを表現しても受け止めてもらえる環境である事なんだと言いました。
アートセラピーが持つ懐の広さ。話を聞いていて少し涙が出そうになりました。
自分が小さかった時に、ニナのような人が身近にいただろうか、と考えました。
残念ながら答えはノー。
このような優しさと広い心を持つ人の元で、自由な表現を許されていたら、少なくとも秘密を共有できていたなら、幼かった私の心はあそこまで傷つくことはなかったのかもしれない。
このような考えのもとで自由なマインドでいる事を許されているドイツという国が羨ましくなった。
自分に制限を課している自分だ。自分に自由な表現を許していく事。それが私の今の課題なのかもしれない。アートセラピーの世界に触れてそんなことを考えた。