自由を奪うもの?与えるもの?ファッションで最も大切な事〜ムスリムファッションから学ぶ
私が通っている施設の同僚でムスリムの女の子が数名います。
彼女たちの両親は難民としてパレスチナやレバノンからやってきて、彼女たち自身はドイツで生まれ育ったアラブ系ドイツ人です。
彼女たちはヒジャブを被ったムスリムファッションに身を包んでおり、見た目からはアラブ系だと印象を当然受けるのですが、話をすると普通に素朴などこにでもいる女の子です。
アイデンティティは半分、もしくは半分以上がドイツ人かなと思いますが、アラブ系の友人が身近にいなかったので彼女達の存在を新鮮に感じる自分がいます。
最近よく読んでいるちきりんさんのブログの連載記事のひとつの中で、イスラム文化について取り上げたものを読みました。
恥ずかしながら数か月前までちきりんさんの事知らなかった…Twitterすらもやってなかったからね。。
ベルリンに住んでいるとイスラム文化を身近に目にする事が多く、
最近中東の国々に興味が湧いていたところです。
更にこっちに来てからベジタリアン、ヴィーガンの友人も増えたり、
今通っているインターンシップ先でも宗教上の理由で豚肉を食べられない人がいたり、健康上の理由で乳糖類を摂取できない人がいたりで、
食べ物を通じて、様々な事情を抱えた人達との共生について考えていました。
そして、今日の話題はこの記事について。
最近よく一緒に顔を合わせる機会の多い、ムスリムの女の子。
今日喋っていて、話題が彼女のファッションについてとなりました。
私は本当にこれまで知識や興味があまりなくて、漠然したイメージしか持っていなかったんです。
それに、宗教上のファッションのことについて質問するなんて失礼だなと勝手に思っていた。
なので、よく見かけるけどあまり触れちゃいけない事なんだと思っていた。
けれど、昨日読んだちきりんさんのブログが、私の知らない文化に対して良い意味で私の興味関心を掻き立ててくれて、彼女に質問するに当たってすごく純粋なマインドへと私の気持ちを持ち上げてくれました。
どこで買うのかとか、ムスリムでない人が興味を持って着ることがあるのか、など聞くうちに、
(ちなみに、特定のお店に行くこともあれば、H&MやZARAとかで買うこともあるとのこと。完全に中東っぽい恰好をしているわけでなく、こっちでよく見かける女の子たちはうまく色んなアイテムをバランスよく選んで洗練されててお洒落です。
更にムスリムでない人でも着ても全然OKです。そりゃ当たり前か。)
私が一番個人的に気になってたことを聞いてみました。
ムスリムファッションではできない事があります。
肌を過剰に露出したり、身体のラインを見せたり。
でも女の子であれば、そのようなファッションに身を包んでみたくなったりしないのかな?と私は思っていたんです。
特にドイツ人としてドイツで育っていたら、好きに色んなものを着る同世代の子を沢山目にするはずで、羨ましくなったりしないのかな?と思ったんです。
彼女は快く答えてくれました。
そしてその答えが私の予想を上回るもので、私は目から鱗が落ちる思いがしました。
ムスリムファッションに対する私の疑問は、きっと私だけが抱いているものではないはず。
ムスリムファッションはもちろん気候なども影響していると思います。
しかし、中東圏ではまだまだ男性優位の考え方が主流であることから、
私はあのファッションを見て、女性に対する抑圧のイメージを抱いていたんです。
彼女もおそらく、宗教上の理由でそうせざるを得ないから着ているのだと。
制限がある中で彼女らなりにお洒落を楽しんでいるんだろうなと思っていたんです。
なので、お洒落をしたいならもっと肌を見せたり身体のラインが見えるものを着てみたいと思うものじゃないかなと、でも彼女たちはそれができないんだと。
しかし、それは私が勝手に抱いていたイメージに過ぎなかったことが分かりました。
彼女は現在18歳で、16歳からムスリムファッションをまとい始めました。
母親はムスリムファッションを着ていないそうで、彼女が着始める際には本当にいいのか?と母親から聞かれたそうです。
彼女は、多くの人がムスリムファッションが自由を奪うものであると認識している事を知っています。
けれど彼女の気持ちは全く逆です。
彼女はヒジャブを被り、ムスリムファッションに身を包むことでより一層自由を感じられる、と言いました。
グレートな気持ちがして心地よい。だから着ているんだ、それが彼女の答えでした。
彼女は誰からも何からも強制されてムスリムファッションを着たことなど一度もありません。
それは神の意志に背いたこと、と彼女は述べました。
心から着たいと思わないのであれば着るべきではない、というのが神の考えなのよ、と答えてくれました。
私は彼女の答えに心から大きな衝撃を受けました。
自由を奪うものだと私たちが勝手に決めつけていた物が、実は彼女に自由を与えて、彼女を輝かせてくれるものだったなんて!
すごく面白いなと思ったし、狭かった私の世界が一気に広がったように感じました。
ムスリムファッションに身を包む女性全員が彼女と同じ考えをしているかどうかは分かりません。
その場から浮かないようにとりあえず着てる人もいるかもしれないし、何となく落ち着くからという理由などで深く考えずにとりあえず着てる人もいるかもしれません。
その人がどんな社会に住んでどんなコミュニティに属しているかも大きく影響しているでしょう。
ただ、彼女が心から満足してムスリムファッションに身を包んでいるという事実が私をとても幸せな気持ちにしてくれたと同時に、
私が育ってきた文化について考えされられました。
日本で制服がある学校に通っていた人は数多くいると思います。
果たしてあの制服がどれだけ多くの人を幸せにすることができていたのか、考えました。
また、ムスリムの子が日本の学校に通う事になったら、彼らは服装についてどう対処するのか。ヒジャブを被る事が許されるのか、丈の短いジャケットなどはどうするのか。
それとも四の五の言わずにみんなと同じ格好をしろ、と多様性を無視した生徒指導が行われたりしないだろうか
など色んな事が頭をよぎりました。
ドイツはつくづく多様性について寛容であり、生きやすい社会だなと思います。
服装や見た目について何を選んでも(マインド的な意味で)自由である環境において、敢えて「制限(ルール)」のある服装に自らの意志で身を包み、そして心からの幸福を感じる。
これを本当にすごいことだなと思ったし、このような環境で生まれ育つことができて羨ましいとも思いました。
生まれ育ったバックグラウンドも大きな影響があると思うけど、
自分の意志で自分の着たいものを着ること。
そして、誰かが纏っている服装には少なからず理由があって、本人にとって一番落ち着くから着ている。
一番大事なのは自分が輝いていると感じられる事。
誰が何を言おうと関係ない。自分の魂にとって本当に大切なものを選ぶこと。
「着る」という行為の真髄はそこにあるのだ、という事に気付かされました。
服装についてそんな当たり前の事を今まで見過ごして生きてきたし真剣に考える機会なんて持ったことが無かったのに気づかされました。
日本の全体主義的で生まれ育って西欧かぶれした自分の凝り固まった考え方に大きな風穴を開けてくれたムスリムファッション。
最後に、こんな事聞いて失礼じゃなかったか彼女に聞いたのですが、
彼女は、興味があればどんどん聞いてほしい。特権意識を持つような事はしたくないからオープンでいたいってみんな言ってるわ、って答えてくれました。
イスラム教って厳しいけど根っこはとても温かで優しい文化なんじゃないかって思わせてくれた瞬間でした。
ベルリンにいるあいだにもっと知る機会を持てたらと思っています。
勇気を振り絞るという事
ほぼ毎日目にする景色。
通っているインターンシップの通勤路の川沿いだ。
天気が良ければ芝生でゴロゴロしてる人がよくいる。
川沿いにはガチョウ達が餌を求めてよく人に群がっている。
ベルリンで人気ものになりたければ、是非オススメです。
帰り道にスーパーに寄る事も良くある。
前には意味の分からなかった表記が理解できるようになったし、レジでのやり取りもすっかり慣れた。
そうやって慣れなかった土地に慣れてきた頃、ふと昔関わっていた利用者さん達の事を思い出す。重い障害を抱えながら、それでも毎日楽しく生きていた。彼らのご家族や周囲の人たちも、直面する様々な問題に悩みながらもなんとか乗り越えて生きていた。悲壮感なんてカケラもなかった。
彼らの記憶が、今の施設での出会い、私自身の生活経験、一人一人が抱えるケースとリンクする。そして今関わっている人からも昔の記憶からも新たな気付きを得る事が最近よくある。
私がこうして慣れない外国の土地で出歩く事自体がもうすでに冒険だ。
慣れない頃にはそれすら感じる余裕なんて無かった。今こうして余裕が出てきたからこそ、振り返ってみて思う。
身体面、精神面など様々なハンディキャップを抱えた彼らにとって、私達が普段何の気なしに歩く街はどう写っているのだろう。
重い障害を抱えた利用者さん達にとって、普通に街を出歩く事も私が外国で感じているほどのものすごい大冒険なのかもしれない。
昔彼らと一緒に過ごしていた時には、彼らがそんなすごい冒険を日々こなしているなんて気づきもしなかった。
抱えるハンディキャップゆえに、または育った環境がゆえに、常に守られた環境で育ってきた人が結構多い。
私たちの仕事は、利用者さん達をどんどん街に連れ出して、地域生活に溶け込ませる事だった。
彼らが感じてきた思い。
今になってそれがようやく理解できた。
海外に出てきて度々遭遇する読めない文字表記、予測不可能な人々の動き、どうしたら良いのかわからない自分の振る舞い、
どうしたらいいのか。どう思われているのか。何がいついきなり起こるのか分からない状況。
大袈裟かもしれないけど、海外生活に慣れていない人であればこれぐらいのプレッシャーを感じても無理がないと思う。
彼らにとって、近所の外出は海外旅行並みの出来事だ。
たとえ自分の国の、超地元の街であっても、普段外出慣れしていなければ、ただその辺のスーパーや公園に行くだけでも彼らにとっての周囲は膨大なハプニングの連続なのかもしれない。
慣れた心地よい環境に留まるのはすごく楽だ。何も心配しなくて済むし、何でも思った通りにできる。
自分の安全が一番保証される環境で心地よさを感じるのは、本能的なレベルから考えても当たり前の事。
生き物は自分が最もエネルギーを消費せずに済むやり方を本能的に選ぶものだと昔習った。
そこから一歩踏み出すのはすごく勇気がいる。
それがアマゾンの秘境に踏み入れようが、その辺のスーパーに買い物に行こうが、根本的には変わりない。
どこへ行こうとも、何をしようとも、どんな程度であろうと、自分にとって心地よい環境から飛び出してそんな冒険をする勇気を出す事自体が物凄い事なんだと思う。
私は、どこの誰であっても、その人がどんな立場で何をしようとも、一つ一つのその勇気を心の底から讃えたい。
すごい偉業であろうが、ほんの小さな出来事であろうが関係ない。
勇気を振り絞る事自体に本質的な違いは無いのだ。
その勇気の振り絞りの一つ一つの積み重ねが、人生を切り開いて行くという事なのだと思う。
そんなわけで、時々私も自分自身を讃えようと思う。
結構頑張ってるんだぜ、お前さん!
特権意識をぶっ壊す〜私が抱いていたつまらないプライド
このクリスマスシーズンをデンマークで過ごし、前の学校の友達と再会したり、招かれたお友達のお家でのんびりと過ごしました。
ドイツからいきなりデンマークに移って、当たり前だけど街の雰囲気が全然違うのに改めて驚きます。
デンマークは、悪い言い方をすればどんよりと、良い言い方をすればこじんまりと落ち着いた国です。
その滞在中に友達何人かと日本スタイルのラーメン屋に行きました。
日本のラーメンと言えば、いまや世界各地で展開されている日本食文化のひとつ。各地でお店が展開され、そこそこ人気を博しています。
がしかし、友達の一人は、食べたことなかったからトライしてみたけどこれは自分には合わないわと言って食べきれませんでした。
世界で人気だからと言って、誰にでも受け入れられるわけではないんだなと、改めて文化の違いを感じた瞬間でした。(元々好き嫌いが多い子ではありましたが)
私がヨーロッパに来てもうすぐ一年が経とうとしています。
こっちに来てからの一年をぼんやりと思い返していて、ハッと気付いた事がありました。
ハッキリ言えば、私は日本人である事にタカをくくっていたんです。
以前滞在したニューヨークでは、たまたまその時ジャパニーズカルチャーブームだったのと、旅行で海外を訪れる度に日本人であることを割と珍しがられたのと、
昔からある世界における「日本人」や「日本ブランド」のイメージや信頼が高いのと(これはある意味本当だと思います)、
親日的な友達が周辺に多かったことと、
これらの経験から、自分は日本人だからどこに行っても割と受け入れられるだろうみたいな、
妙なナショナリズムみたいな意識を持っていたんです。
自分は日本人なんだ(ドヤ顔)、みたいな。
別の言い方をすれば、特権意識、特別感というものでしょう。
でもそうじゃなかった。
はじめは珍しがられても、日々を過ごしていくうちに、出身関わらず平等な扱いになる。
当然日本文化に全く興味がない人、日本がどこなのかさえ知らない人だっている。
日本でなくても、どこの国に対しても平等である事。
そんな当たり前の事に気付いた時、とても恥ずかしくなりました
自分はなんて奢っていたんだと。
自分が一番だという意識がずっとどこかにあったんです。
もちろん自分の生まれ育った国だし、馴染んだ文化なんだから一番親しみを感じるのは当然です。
でもだからと言って、世界の誰もに受け入れられるわけではない。ラーメンを食べられなかったあの子のように。
自分の国の文化の話をしても、ふーんと塩対応される事だってザラです。(もちろん話を興味深く聞いてくれる人もいます。これはもはや相手の性格の問題ですね)
どの文化だって素晴らしいし、とても面白い。
自分はそのバリエーションの一つにしか過ぎないんだと。
それに気付いただけでも、日本という名の小さな島国から遠路はるばる出てきた大きな収穫です。
自分の奢っていたつまらん特権意識をぶっ壊す事ができました。
日本は本当に、世界の小さな島国の一つに過ぎない。
昔は確かに一際世界で目立っていた時期もあったと思いますが、今は本当に世界のただの小さな国の一つ、それ以上でもそれ以下でもないと思います。
ひとつ言えるのは、自分がその土地にいる以上、その国の文化が一番のプライオリティになる。郷に入り郷に従えとは良く言ったものです。
新しい文化に飛び込んで、受け入れてみて味わって咀嚼してから取捨選択していく。
それが海外に住む醍醐味だとも思うし、大切な態度だと思うのです。